※所属や肩書は講演当時のものです。
2011年3月11日、東日本大震災が起こった日、私は日本福祉大学の美浜キャンパスにいました。第一報を受けて頭に浮かんだのは、宮城県の実家に帰省すると聞いていた学生のことです。しかし、既に電話もメールもつながらなくなっていました。彼からメールの返信があったのは5日後で、ご両親とともに避難所にいるということでした。ほっとしたのもつかの間、その文章の後に「死体が周りにたくさん浮いています」とありました。
私はいてもたってもいられず、卒業式が終わった21日に、バスを乗り継いで彼のもとに駆けつけました。被災地では、ビルの屋上に車が打ち上げられていました。私たちはそうした光景に目を奪われがちですが、忘れてならないのは、人々の生活がそこにあったのだということです。それが一瞬で押し流された。それを「自然の脅威」などというのは綺麗事です。そこにあった一人一人の生活を、どれだけ想像することができるか。犠牲者2万人といいますが、失われたのは2万人の集団ではなく、一人一人の命なのだという重みをしっかりと受け止めながら、3.11を考えていきたいと思います。
三陸地方には「津波てんでんこ」といって、津波が来たら周りに構わず、各自がてんでんばらばらに高台に逃げろという古くからの教えがあります。それを伝承してきた山下文男さんは、昭和三陸沖地震のときに、自分の親も含め、大人たちが子どもに構わず一目散に逃げ出したのを見ました。山下少年は、大人の後を追って必死に走ったといいます。薄情に思えるかもしれませんが、「津波てんでんこ」とは、明治三陸地震で受けた壊滅的な被害を教訓に語り継がれてきた、一族や地域を全滅から守る知恵なのです。だから、自分だけが助かっても非難されることはありません。生き残った者が命をつなげる責任を果たすのです。この教えを守り、今回、一人の犠牲者も出さなかった小中学校もありました。
一方、日本の防災計画・教育の多くは、1995年の阪神・淡路大震災を教訓に作られました。そのため、大規模な建物の倒壊を前提に集団避難の重要性が説かれ、学校の避難訓練でも校庭に一度集まってクラスごとに安否確認をし、集団で安全な場所に移る方法が主流となったのです。しかし今回、こうしたマニュアルどおりに動いていた学校では避難が遅れ、多くの犠牲者を出したところもあります。防災計画や防災教育の見直しは、避難の方法にとどまらず自然との向き合い方や人と人とのつながりなど、教育の中身そのものにおよぶことだと思います。
防災計画についても、地域ごとに起こり得る災害が異なる中で、日本全国横並びで、同じマニュアルで対応できるはずがありません。それぞれの地域で蓄積されてきた生きる知恵を生かし、その土地に合った防災計画や備えをしていかなければならないのです。同時に、人々の生活を守るためには、地震発生直後の避難だけでなく、避難所運営も含めた計画を作っておく必要があります。
日本福祉大学は地震後すぐ、3月中に災害ボランティアセンターを立ち上げ、学生や教職員が宮城県、岩手県、福島県で活動し、大学のある愛知県でも、福島の子どもたちを呼んでキャンプをするなど、今もいろいろな活動を続けています。その一つ、宮城県で取り組んでいる活動は、宮城県出身の学生のアイデアで、県の花の名前から「萩の花プロジェクト」と名付けられました。このプロジェクトでは、2011年の5月に名取市閖上(ゆりあげ)にある特別養護老人ホーム「うらやす」でも活動をさせていただきました。
「うらやす」は、水位180cmの津波に襲われ、利用者43名、職員4名、計47名が犠牲になりました。学生たちは5月の連休に施設跡を訪れ、がれき撤去や利用者の皆さまの思い出の品を探す「大切なものさがし」を行いました。一番うれしかったのは、がれきであふれていた施設の白い床が見えてきたとき、職員の方たちが涙声で「諦めていたけれど、もう一度何とかしたい」とおっしゃったことです。学生たちは、うちひしがれてもなお施設を再建しようとする彼らの強さに触れ、福祉に携わる者の責任感と、福祉専門職が持つべき志を、普段の実習以上に感じ取ったに違いありません。それは、福祉の根源である「生きる」ということをどうとらえていくのかということなのです。
日本福祉大学 災害ボランティアセンター
学生・教職員による被災地に対する支援の実行組織として2011年3月に発足。他のボランティアグループや団体とも連携したネットワーク型の組織として取り組むほか、持続可能なボランティアを担保するため、活動資金の募金も行う。
私たちは、多くの福祉関係者へのヒアリングを通じ、福祉専門職がすべきことを洗い出す研究も進めています。
最初は安否確認です。その際には、確認対象者に優先順位を付けておくことが重要です。福祉の分野にもトリアージが必要だということです。また、利用者基本台帳のデータをパソコンの中だけに保存していたところでは、停電やパソコン自体の流失で、利用者のデータにアクセスできなくなりました。従って、緊急時に持ち出せるよう、紙データも用意しておくべきです。ただ、クラウドシステムを使って遠隔地のサーバーにデータを保存しておけば、電力復旧後に取り出すことができます。
また、介護保険被保険者証などの管理のあり方も考えておく必要があります。今回は、本人確認ができれば継続可能としましたが、なかには被保険者証が流されて2週間近くサービスが受けられなかった利用者もいます。服用薬の名前が分からない患者さんも多くいました。これには、薬剤師会の方々が患者さんたちに必要な薬の見立てをして、混乱する診療の現場を助けたという事例があります。この経験から、透明のプラスチックカプセルを高齢者に配り、そこに緊急連絡先や薬の名前、介護保険番号などを書いた紙を入れ、冷蔵庫に保管してもらっている自治体もあります。冷蔵庫の中にあると決まっていれば、救援に行った人がすぐに探し出すことができるからです。
また、多くの福祉事業所は自治体との間で、災害時には福祉避難所として利用するという協定を結んでいました。事業所の側では、いざというときには地域の方々が助けてくれるという期待もあったといいます。しかし実際には、50人規模の事業所に300~400人もの地域のお年寄りがなだれ込み、それに対応できるだけの備蓄も人材もなく、大変な思いをしたそうです。しかし、施設があったからこそ助かった人たちがたくさんいたのも事実です。従って、福祉避難所の位置づけと役割、緊急時の仕組みについても見直す必要があります。
発災直後は生きるか死ぬかの状況ですから、医療従事者の必要性が最も高いのは当然です。消防や自衛隊などもそうです。従来は、その後からが福祉関係者の出番だといわれてきました。私は、それは大きな誤りだと思っています。福祉関係者は発災直後から、自分の家族の安否も知らぬまま、現場で自分の職務を果たしていたのです。帰宅できたのは2週間後だったという方もいらっしゃいます。どちらが偉いとかいう話ではなく、私はこの福祉関係者の方々の正義感、使命感の高さは本当にすごいなと思います。そのことを明らかにしておく必要があるのです。その一つとして、宮城県内の市町村社会福祉協議会の職員さんたちの手記を1冊に編纂させてもらいました。
さて、被災5日目あたりになると、避難所での活動が中心になり、福祉関係者は事業者のサービス提供状況の把握や状況に応じたケアプランの変更などの仕事に追われます。事業所が壊滅したデイサービスセンターでは、スタッフがホームヘルパーとなり、ガソリン不足の中、自転車や徒歩で利用者の自宅や避難所などを回ったそうです。また、利用者が現在いる場所で生活の継続が可能かどうかの再アセスメントが必要となってくるため、多くのケアマネージャーが利用者を一人一人訪問し、ケアプランの作り直しを始めます。
また、行政・関係機関から介護保険制度上の運用や支払い、ボランティアの受け入れ等の指示が出たのは、10日後でした。それまでの間は、行政が必ず後から補填してくれると腹をくくってサービスを提供し続けなくてはいけません。そのためには、事業所が事前にBCP(事業継続計画)を策定してあったところは有効であったといわれています。災害後に一早く事業を継続させていくためのシミュレーションや備えが必要です。
このころから、エコノミー症候群、感染症、脱水症状が出始めます。口腔ケアの必要も出てきますし、認知症高齢者や知的障害者への対応にも追われます。1カ月も経つと、身体機能の維持や栄養管理、入浴についても考えなくてはなりません。こうしたことに対応するには、全国の他の機関との連携も必要になってきます。同時期に子どものアレルギーの問題も出てきましたが、全国連絡会とうまく連絡が取れて、アトピーの子ども向けの食材を送ってもらえた避難所もあります。
3カ月ほどたつと、生活の場が避難所から仮設住宅へと変わっていきます。しかし福祉避難所には、寝たきりや認知症の方、重度の障害者の方などがいて、閉鎖できません。最終的には被災3県から離れた福祉施設に入所されたケースが多かったようです。福祉避難所と仮設住宅、あるいは在宅福祉サービスとのつなぎのあり方が今後の課題です。また仮設住宅でも、コミュニティが形成されてくるところもあれば、自治会すらできないところもあります。これは、3.11以前に自治機能がなかった町内会等では、避難所で住民同士の合意形成ができなかったために、そのままバラバラになっていったところもあります。さらに、いずれ出ていく仮設だからと、その後もコミュニティが形成されない。そして、よく聞く話が仮設での孤独死です。この問題に対して大切となってくるコミュニティワークにおいて、ソーシャルワーカーが果たす役割は大きいといえるでしょう。
事業所内では、危機管理体制を構築し、職員の安否確認、職員間の連絡方法、施設長と連絡が取れない場合の指示体制、備蓄品の使い方等々のシミュレーションを普段から行っておくことが重要です。
地域のなかでも備えが大切ですが、地域ぐるみでとり組める一つのツールとして、この1年で広がってきたのがHUG※(避難所運営ゲーム)です。これは静岡県の防災センターが作ったもので、小中学校が避難所になった場合の250の問題が書かれたカードから成っています。「体育館の鍵は誰が持っているか」「受付はどこに作るか」「盲導犬を連れた人にどう対応するか」「認知症の人を受け入れることができるか」といった具体的な問題について、普段から住民と福祉関係者が話し合う場を持っているかどうかで、いざというときの対応に大きな差が出ます。ここで大切なことは、正解はなにか、どうしなければならないか、ということよりも、住民の間で対話が生まれることです。
HUGは、防災だけでなく、福祉教育にも非常に有効なツールです。仙台市宮城野区などでは、小学校の授業で児童と地域住民の方にこのゲームをしています。今回、被災地で最も活躍した若者は中学生だったといいます。高校生以上の若者は、ほとんど都会へ出てしまったからです。ですから、HUGのようなゲームをきっかけに、小学生のうちから地域との関わり方を考えていくことは、非常に重要なことだと思います。
※HUG(ハグ)=避難所運営ゲーム(Hinanzyo Unei Game)の略
もう一つ大きな問題が、個人情報の取り扱いです。個人情報保護法ができてから、われわれ福祉関係者、特に民生委員やボランティアの地域活動は、ことあるごとに行き詰まるようになりました。しかし、被災地の皆さんは「命より重い個人情報はない」とおっしゃいます。国も3.11以降、特に災害時は個人情報の運用にあたっては柔献であってもよいという通知を出しています。個人情報を守ることは大切ですが、何のために個人情報を保護するのか、その目的を確認し直すことが不可欠です。
今回の震災では、アパートやマンションを利用した借り上げ住宅(見なし仮設)が多く利用されています。福島から県外に避難した方にも見なし仮設の一つとして家賃の補助などを行っています。しかし、これも個人情報の問題から、行政は民生委員に情報を届けておらず、周囲の人たちには、どの人が避難してきた人なのかが一切分かりません。そのため、孤立死の多くは仮設住宅よりも見なし仮設で起こっているのです。被災地では生活支援相談員が活躍しています。※
※個別支援と地域支援をつなぐ生活支援相談員の役割や機能は重要です。こうした人材は被災地だけではなく各地に必要ではないかと思っています。
仮設住宅によっては、小さな菜園を作ったり、ウサギやニワトリなどの小動物を飼ったり、お地蔵さまを備えたり、生活を日常に戻していくためのさまざまな工夫が見られます。特に昔ながらの掲示板は、さまざまな人が立ち止まって見ることができ、そこにベンチを置いたり、サロンができています。
復興は、現在もまだ進行中です。すべてを失ったときに、一人だけの力で人生をやり直すのは、本当につらいことです。そのときに希望となるのは、地域の人たちが一緒にやり直そうとする人間関係なのだと、被災地に行くと痛感します。福祉専門職に就くわれわれも、人々の命に寄り添って自分に何ができるかを真剣に考え、今後も人々の生活の復興に向けて、できることにしっかり取り組んでいきたいと思っています。
※この講演録は、学校法人日本福祉大学学園広報室が講演内容をもとに、要約、加筆・訂正のうえ、掲載しています。 このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。