※所属や肩書は講演当時のものです。
マザーハウスは、私が24歳のときに起業した会社です。もともと私は、自分の会社を持つことにはそれほど興味はありませんでした。会社を起こしたのは、単純に夢を実現したいと思ったからです。
実は私は、小学校のときにすごくいじめられていて、学校に行くことが難しかったのです。上履きがない、教室に椅子がない、トイレに行くと上から水が降ってくる、帰り道ではいろいろな所から石が投げつけられて、幼いながらにとてもつらく感じていました。中学校に入り、二度といじめられたくないという気持ちで始めたのが柔道でした。高校3年生の最後の大会で、埼玉県で1番、関東で2番、オリンピックの第1次選考会で7番になることができて、ヤワラちゃんなどと一緒に全日本強化合宿に行くなど小さな成功体験があって、私でも努力すれば少しでも拍手をもらえるのだと思ったのが、高校3年生のときです。
しかし、オリンピック一筋で練習してきたわけではなく、私自身は強くなりたい、自分自身を守りたいという思いで始めた柔道だったので、高校の引退試合が終わるとすぱっとやめてしまいました。そして、初めて勉強してみたいと思うようになり、本当にラッキーなことに慶應大学に入ることができました。4年間の学生時代で大事な財産となったのが、竹中平蔵先生との出会いでした。途上国の経済発展理論を聴いて、私が悩んだ教育の問題は日本にだけあるものではなく、発展途上国の人々も学校がなくて困っていると分かり、アジアやアフリカのことを勉強しはじめるようになったのです。
大学4年生のとき、ワシントンの米州開発銀行で4カ月ほどのインターンの機会を得ました。私が携わったのは、大変大きな額の援助のデータをコンピュータに入力するという単純な作業だったのですが、そのときに、これだけの額の援助が本当に届いているのかという疑問を持ち、それを自分の目で確かめたいと思ったのです。そして、せっかくだったらアジアで一番貧しい国に行ってみようと思ってYahoo!で「アジア最貧国」と検索して出てきたのが、バングラデシュでした。私は取りあえず2週間の夏休みを利用して、ワシントンからダッカに向かいました。
そして、その2週間で、現地にもっといる必要がある、そのためには教育ビザが必要だと思い、現地の大学院に入るために、慶應大学を卒業して1カ月後にダッカに向かいました。両親や教授の大反対を押し切っての決断で、大変な勇気を振り絞って成田空港に行ったことを覚えています。NGOなどの組織に入れば少しは安心だったかもしれませんが、私は独りぼっちだったので、ベンガル語の辞書を片手に、まずは自分が住む家を見つけなければいけませんでしたし、水を出すとか、電気を通すとか、全ての作業において役所と交渉しなければいけませんでした。しかも、そのたびに賄賂を要求されるのです。
悩んだ末、1年後には日本で普通に就職しようと決め、一旦帰国して就職活動を始め、ある会社に内定までもらいました。しかし、ダッカに戻ると、自分の決断は本当にそれでよかったのかと思えてきたのです。何のために生きるのかという枯渇感のようなものを、とても覚えました。そのことに気付かせてくれたのは、大学院に行く途中、毎日私に水を売りに来るスラム街の少年たちでした。私の何百倍も必死に生きている彼らを見ながら、私は自分が胸を張って生きられる選択をしようとしているのかと自問自答しました。そして、政治ではなく、自分たちの力で道を切り開けるビジネスというセクターに希望があるのではないかと思い始めたのです。
そんなときに出合ったのが、ジュートでできたコーヒー豆の袋です。2005年のことでした。ジュートは、バングラデシュでは黄金の繊維とも呼ばれている、バングラデシュが世界に誇る天然繊維です。バングラデシュにも誇れるものがあると知り、すごくうれしくてすぐにジュートの工場に行ったのですが、そこでは13歳の女の子たちが2~3万人というレベルで働いていて、1ドルもしない麻袋を大量生産していました。彼らはその気になればもっといろいろなものが作れるのですが、先進国のバイヤーのリクエストは、中国の3分の1の価格で作る麻袋だけだったのです。私はその様子を見ながら、「途上国から先進国に通用するブランドを作る」というミッションを、スケッチブックに書き留めました。
ですから、マザーハウスは事業計画がしっかりと固まってからできたわけではないのです。バングラデシュを生産拠点として日本向けに輸出することは非常に新しい試みでしたし、ジュートをファッションバッグの素材に使うのも初めてでした。さらに、それをイスラム教社会の中で女がやろうとすることも、宇宙人のような目で見られました。レザーだと言って出されたものが合皮だったりもして、私自身何が何だか分からない中でしたが、アルバイト代を全てはたいて何とか160個のバッグが出来上がり、会社を設立したのが2006年3月9日です。社名は、マザーテレサから取ってマザーハウスとしました。家がない子があまりにも多いので、戻れる場所になれたらいいという思いからです。
ちなみに、言葉はどうしたかというと、大使館の皆さんが行く語学学校は学費が高かったので、路上でお茶を売っているおばちゃんに1時間10~20タカ払って、工場でもすぐに使える生きたベンガル語を習いました。私にとって言葉はツールではなく、彼らを尊重しているという印なのです。日本企業の駐在員が言葉も学ばず、どうして信頼関係が結べるのだろうという考えがベースにあって、今、弊社の日本人駐在員が2名現地に張り付いていますが、2人とも自由に話せるようになっています。
帰国すると、今度は販売への挑戦が始まりました。初年度は1人で経理をし、Webサイトも自分で作り、毎朝サンプルを持って百貨店や小売店に行き、商品の説明をしました。たくさんのハードルを乗り越え、1年間で13件の卸先を確保して、その後、少しずつ発注書が届くようになりました。しかし、あるとき某百貨店に陳列されている様子を見に行ったところ、私たちのバッグが1つ、倒れたまま置いてあったのです。販売員の方は、私たちがどんな思いで作っているかなど知るよしもありません。それではお客さまに私たちの商品の良さが届かないのではないかと思い、次の夢を自分のお店を作ることに決めました。
しかし、資金がありません。逡巡していた矢先、たまたまテレビで見た「ビジネスプランコンテスト 賞金300万円」という企画に、これだと思ってすぐに応募しました。最終選考で「300万円もらったら東京に直営店を作ります」と言って「東京で300万円でお店なんか作れるわけがないでしょう」と言われてしまい、絶対に落ちたと思ったのですが、予想に反して最優秀賞がいただけて、私は300万円を手にすることができました。早速物件を探し、出合ったのが東京都台東区入谷にある8坪の物件でした。そこを借りて、内装費もないので自分自身がつなぎを着て、いろいろな人たちにも手伝ってもらってペンキを塗り、250万円で開いたのが2007年にできた1号店です。
私はそこで初めてお客さまとお会いして、お客さまの生の声を聞くことができるようになりました。そして、私はそれを100%工場に届けたいと思い、またバングラデシュでの生活を始めました。その後も、私自身のパスポートが工場内で盗まれてしまったり、別の工場にあるとき行ってみたらもぬけの殻だったりと、バイヤーにも生産者にもだまされて、いろいろなトラブルが続きました。また、非常事態宣言が出るなどカントリーリスクも高まって、続けられるかどうか不安だったのですが、日本のお客さまから本当にたくさんの励ましのコメントをいただいて、踏み留まる決意をしました。
そして、1人から始めたものが6人になり、6人が20人になったころ、小田急新宿百貨店の山本さんというバイヤーの方が入谷店に来られました。「君は面白いことをやってるね。今ある在庫を全部買うよ」と言ってくださったのですが、私は生意気にも、「卸はやりたくない。自分のお店が欲しい」と言ったのです。山本さんは「だったらやってごらんよ」と言ってくださって、2008年、小田急新宿百貨店の2階に弊社のお店ができることになりました。また、同じころ、「情熱大陸」というテレビ番組のプロデューサーも入谷店に来られて、バングラデシュの工場を取材してもらえることになりました。2カ月の撮影が終わって番組が放送されると、Webサイトは閲覧が殺到してサーバーがダウンし、小さな入谷店がたくさんの人でいっぱいになって在庫が全てなくなってしまいました。また、道を歩けばいろいろな人が「応援しています」と言ってくださって、違う自分がいるようでした。
今振り返ってよかったと思うのは、そのときに生産を加速させなかったことです。販売がいかに順調でも、一定のスピードでしか物は作れないからです。その後、遅速ながらも現在は横浜、大阪、福岡、池袋、溝口など国内に11店舗、台湾にも4店舗を構えています。一番新しい店は東銀座の路面店で、起業当初の銀座に店を出すという夢が実現しました。そして、夢の続きとして31坪の新しい本店を台東区に構え、最近はネパールで作った洋服も展開しています。
私自身は、今もダッカの工場に年間8割滞在して、朝7時から夜11時まで立ちっぱなしでバッグを作っています。型紙を作って実際に最初のサンプルを縫製までして、みんなに意見を求めるのが私の仕事です。99%は私のデザインですが、自分のデザインだと思ったことは一度もありません。工場のみんなに僕たちが作ったバッグだという誇りや思いがなければ本当の意味でいいものが作れませんし、作らされるという状況では、アジアボトムの国から最高の品質のものを日本に輸出することはできないのです。このことは、提携工場で何度も感じました。もっとミスを直してといくら言っても、その場では直っても引き出しを開けたら不良品の山で、それをみんな他人の責任にするのが現実なのです。船で来たもの全部が不良品で、そのまま送り返したこともあります。
試行錯誤の連続の中で、私は物を作る前に人を作ることだと気付きました。それには頑張った結果を見せるのが一番効果的です。そこで、お客さまと実際に工場でお会いする機会を持とうと、旅行代理店とコラボレーションしてバングラデシュの旅をプロデュースすることにしました。2009年以降、これまでに300名のお客さまに工場においでいただいて、バッグ作りをしてもらっています。工場のみんなが初めて日本のお客さまとお会いしたときの喜びや興奮は、とても新鮮なものでした。お客さまとの会話の中から品質への確信が生まれ、次第にみんなが変わり始めました。受け身でただ物を作るのではなく、「お客さまはiPhoneを使ってるよ。ポケットサイズはもう少し大きい方がいいんじゃない?」と言ってくれたときのうれしさは、言葉では言い表せないほどでした。
そこから1個1個バッグを改善していって、今は月産5000個作っています。輸出金額ではバングラデシュのバッグセクターで第3位になりました。本当に大変な道のりでしたが、私は本当に工場のみんなに支えられてここまで来られたと思っています。機械より安い人を雇うのではなく、誇り高い職人たちに集まってほしいという気持ちで給料も現地の平均の2.5倍出していて、1人1人の名前を書いた社員証を発行しています。そんな私の思いが届いたのか、素晴らしい職人が集まるようになり、今、工場のスタッフは100名を超え、提携工場では300名のスタッフが働いています。
私がつらくても頑張れたのは、悩み抜いたその先に見つけた夢を実現したいと素直に思ったからです。そして、その思いに、スキルも知識も私の何倍もある優秀なスタッフが付いてきてくれています。ですから、若い皆さんには、悩むことは全く無駄ではないし、逆に悩むことを避けて自分自身との対話をなくしてはいけないということを、最後にぜひお話ししておきたいと思います。私自身もまたあしたから頑張ります。
株式会社マザーハウス代表取締役兼チーフデザイナー
1981年埼玉県生まれ。慶応義塾大学総合政策学部卒業。ワシントン国際機関でのインターンを経てバングラデシュBRAC大学院開発学部修士課程入学。現地での2年間の滞在中、日本大手商社のダッカ事務所にて研修生を勤めながら夜間の大学院に通う。2年後帰国し「途上国から世界に通用するブランドをつくる」とミッションとして株式会社マザーハウスを設立。現在バングラデシュ、ネパールでバッグや服飾雑貨のデザイン・生産を行い、東京を始め、福岡、大阪、そして台湾など15店舗で販売を展開。
Young Global Leader(YGL)2008選出。ハーバードビジネススクールクラブ・オブ・ジャパンアントレプレナー・オブ・ザ・イヤー2012受賞。
※この講演録は、学校法人日本福祉大学学園広報室が講演内容をもとに、要約、加筆・訂正のうえ、掲載しています。 このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。