※所属や肩書は講演当時のものです。
運動・認識・ことばの発達は、一見ばらばらのように見えますが、実は相互に関連しあいながら発達していきます。例えば、子どもがとび箱をとぶという運動ができるようになるのは、何かがわかったからです。わかるとは認識するということです。そして、人間の認識が高まっていく大前提として、ことばの発達があります。運動と認識とことばの三つは、非常に密接な関係性を持っているのです。
運動ぎらい・体育ぎらいということばがありますが、生まれつき運動ぎらい・体育ぎらいの人はおらず、最初に客観的にきらいと感じるようになるのは4歳児ごろとされています。4歳児になると、自分を客観視できるようになり、友だちと比べてどうも自分は運動があまりうまくできないんだと感じると、運動する場面を避けるという選択をしはじめます。
私は毎年ゼミ生に「体育への思い」というテーマでレポートを書かせているのですが、ある学生は、幼稚園のときに逆上がりができず、先生から「~ちゃんはできるのに、どうしてあなたはできないの?」と言われ、その一言によって運動ぎらいになったと書いていました。逆上がりができないのは、やる気や根性がないからではなく、技術的なつまずきがあるからです。逆上がりにもとび箱の開脚とび越しにも、成功のためのポイントがあります。もし先生がそれをご存じなら、そんなことばは出てこなかったはずです。きつい言い方をすれば、できるように指導できない先生が責任を子どもに押し付けた結果、運動ぎらい・体育ぎらいが作られたとも言えます。
『ちびまる子ちゃん』の作者・さくらももこさんは、「中学校における体育の授業のこと」と題して、「小学校高学年ごろから体育の授業がいやでいやで、中学校では体育禁止令が公布されればよいと切実に思った。学習ものの場合は授業中眠っていれば現実逃避できるが、体育のような実技ものはそうはいかない。一体、あんなにも私に恥をかかせた体育の授業は、人間形成において、学校教育の中でとり入れなければならないほどの重要な役割を、どのへんに秘めているのであろうか。ギモンである」と書いています。この文章は、体育は何を教える教科であるのかという、教科内容研究の必要性を示唆しているような気がします。
乳幼児期には多様な運動発達が見られますが、その背景には認識活動が介在しています。とび箱を何段とべたかということも大事ですが、同時に認識面をきちんと育てる必要があります。運動発達の過程では、運動能力が伸びる時期にその運動をやりたがるという特徴が見られます。3歳児は、「見てて、見てて」と言って少し高い所から飛び降りたがりますが、これは飛び降り運動によって降下緩衝能という能力を身に付けようとしているのです。
降下緩衝能とは、足首と膝と腰の関節を使って、飛び降りたときの衝撃を和らげる能力で、何度も高い所から飛び降りることで身に付きます。3歳児がやたらに飛び降りたがるのは、この能力が身に付くのがこの時期だからです。ですから、危ないからと止めてはいけません。降下緩衝能を身に付けた子どもの走り方は全然違います。走ると全体重が片足に掛かるので、衝撃を和らげる能力が身に付いた子どもの走り方はスムーズなのです。乳幼児期の子どもはさまざまなサインを示すので、それを読み取って対応することが大切です。
また、「見てて、見てて」ということばにも意味があります。この時期は自分がどのように思われているかが非常に大きな関心事で、大人が認めて褒めてくれることをすごく期待しているのです。これは3歳児の大きな発達的特徴の一つです。
運動の発達を考えていく際には、運動学習がキーワードになります。「運動が学習?」と思われるかもしれませんが、人間の発達は自然発生的に展開されるものではなく、さまざまな学習を通じてなされますが、それは運動にも当てはまります。よく体が動きを覚えると言いますが、筋肉が動きを覚えることはありません。運動は学習により脳に記憶されるのです。そして、当然ながら運動学習の差は質の差として出てきます。
また、用具や物を扱う運動は、一定の運動学習や習熟練習が不可欠です。うまくできない子どもは技術的なつまずきが生じている状態で、それが解消されればできるようになります。つまり、できないのではなく、うまくなる途中経過にあるのです。
例えば、とび箱の腕立て開脚とびの最大のポイントは、手をついた位置より肩を前に出すことです。これをご存じの先生は「なんでとべないの」ではなく、「手をついたら、前にいるお友だちの顔をみてごらん」と言うことができます。顔を上げると頚反射で肩が前に出るからです。このような体の仕組みを理解した上で子どもに声掛けすることが、とても大切です。
誕生後、運動面では首がすわることが大前提です。その後、三つの姿勢変化(あおむけ・うつぶせ・おすわり)を経て上下肢の使い方や重心の調節等を1年以上かけて学習し、歩行能力を獲得していきます。歩き始めはハイガードで、次第にミドルガードになります。認識面では、生後2カ月になると得意・苦手な感覚が芽生え(二分的感覚)、8カ月になると二分的対象が形成されて「人みしり・場みしり」が始まり、10カ月ごろには三層関係(上下関係)が形成されていきます。
1歳半になると10個ほどの単語が使えるようになり、ことばの獲得に伴って認識能力も発達してきます。さらに「順番」や「貸して」の意味を理解し、ことばの意味に応じて気持ちをコントロールしようとしはじめますが、これにも学習が必要です。また、あることばを聞いてそれが表す物を思い浮かべる表象機能が備わり、象徴機能の発達によっておままごと遊びができるようになります。現実とそうではない世界の行き来を繰り返すことで、認識を発達させるのがこの時期です。
2歳を過ぎると、リズミカルに歩行できるようになります。ローガードになることで手が自由になり、物を持って歩くこともできるようになります。そして、歩くという運動を学習しつつ、走るという動きを獲得していきます。人間の運動能力は、順序性と並列性が混在して発達していくという捉え方ができます。「歩く」と「走る」の違いは、どちらかの足が地面についているのが「歩く」で、両足とも地面から離れる空中局面があるのが「走る」です。もちろん個人差はありますが、2歳ぐらいから走れるようになります。ボールを蹴る、片足をあげてバランスをとる、階段を片足交互にのぼるという動作は、走るという運動と非常に密接な関係を持っています。認識面では、少し先の行動はイメージできても、気持ちが先行するためにあまりうまくいかず、気持ちと能力の間に開きが生じます。例えば、ケンケンをしているつもりでも、片足立ちは最後だけだったりしますが、それを指摘してはいけません。イメージして実際にやってみることに意味があるので、基本的には褒めてあげてください。
3歳になると、前述の降下緩衝能を身に付けて走る運動が質的に高まり、それによって片足とびや静止したボールを蹴ることができるようになります。認識面では明確に他者のことばの意味を理解して、順番待ちなど、それに応じて自分の動きや気持ちを意識的にコントロールできるようになります。また、「ゆっくり動く」「ふわっととぶ」など、ここでもことばと運動の関わりが見られます。そして、「とにかく自分を見ていてほしい、褒められたい」と思っています。自我の欲求を満たす行為ですが、それがいつもうまくいくとは限らず、不安や葛藤が出てくるのもこの時期です。
4歳になると、客観的に自分を見て、うまい・へた、できる・できない、勝った・負けたという二分的評価を行い、自分を位置付けるようになります。運動的には、幼児期に現れる多くの基本動作ができるようになる年齢ですが、同時に個人差が大きくなります。それを認識して体育ぎらいに陥るわけです。しかし、見通しが立ち、納得さえすれば頑張ることができる年齢でもあるので、頑張れと言うだけではなく、納得させて見通しを持たせてあげてください。ここで重要なのが、信頼して支えてくれる他者の存在です。幼稚園や保育園では先生、家庭ではお父さん・お母さん、あるいは友だちの場合もあります。そして、教材の技術的特質やその教材でしか味わえない面白さ、そしてその面白さを理解するための教材の基礎技術を知ることが欠かせません。いわゆる教材分析ですが、冒頭の「なんでできないの?」と言った先生は、教材分析をしていなかったのでしょう。4歳児は非常に重要な年齢です。きらいにするのも好きにするのも周り次第です。難しいかもしれませんが、教材の中身をきちんと理解すれば十分可能であると思っています。
5歳になると、大雑把だった動きが巧みになり、二つの動きをスムーズに結び付けたり、スピードをコントロールしたりできるようになります。認識面では、自分以外の他者どうしを比べるようになり、互いに適切なアドバイスをするようになります。それによって友だち関係が広がり、課題意識や義務意識や集団に対する責任がわかってきます。
こうした運動や認識やことばの発達は、放っておいて出てくるものではありません。人や物といった環境との相互交流で可能になるということを、ぜひ押さえておいてください。
名古屋市にある保育園の先生方と、体育的な取り組みにおける卒園時の子ども像を検討して出てきたのが、以下の五つです。
これらを実現するには、保育の内容や方法が大事になります。とび箱運動「を」教えるだけではなく、とび箱運動「で」教えることも重要なのです。ここがきちんと理解されていないと、とべた・とべないだけで評価して、とべない人=駄目な人となってしまいます。これは、うまい・へた、できる・できないが明確にわかってしまう体育的な取り組みだからこそ重要な教えたい中身になるのです。
もちろん、できるようになることは非常に大切ですから、できれば全員ができるようにしたいところです。しかし、単に技術を伝えるだけが体育的な取り組みではないということもきちんと伝えなければいけません。教材を教えるだけではなく、教材で教えることも非常に大事ですし、そのためにも技術の比較を教えたいところです。「なぜあの子はとべるのに、自分はとべないのか」という「なぜ」や「違い」を科学的に認識すれば、技術的なつまずきに原因があることがわかるので、それについてどうすればよいかが考えられます。
さらに、それぞれの教材でしか教えられないこともあります。例えばとび箱運動は、単に高い段をとぶというだけではなく、とび方や質といった空間表現を教えようと思えば教えることができます。しかし、ルールや社会認識は教えにくく、それにはボール運動や鬼ごっこの方が向いています。それぞれの教材で教えやすい内容が異なるので、それを押えておかなければいけません。そして、教材それぞれが持つ技術的特質や、その教材でしか味わえない面白さ(文化的・社会的・教育的価値)と、それを自分のものにするための指導の系統性の分析が必要です。いきなり「とべ!」ではないのです。教える側がポイントを示すのではなく、先生のことばがけによって子どもたち自身に見つけてもらう工夫をするなど、教材の中身を理解した上で、何を教えるかを設定して取り組んでいただきたいと思います。
今後は、①教えたい中身が先にあって、それを達成するのに適した教材を選択すること、②みんながうまくなる・できるようになるための筋道を保育者が持つこと、③みんながうまくなる・できるようになるための方法を子どもたちが見つけだすような指導をすること、④経験を言語化させること、によって子どもの認識を整理するような実践を展開していく必要があると考えています。
※この講演録は、学校法人日本福祉大学学園広報室が講演内容をもとに、要約、加筆・訂正のうえ、掲載しています。 このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。