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新たな旅たちに

文化講演会
「新たな旅たちに」

講師:
金澤 泰子氏(書家・日本福祉大学客員教授)
金澤 翔子氏(書家・日本福祉大学客員准教授)
日時:
2016年11月5日(土)

※所属や肩書は講演当時のものです。

一人暮らしの始まり

娘の翔子は今年で31歳になります。30歳のときに、思い切って一人暮らしを始めました。私は不安だったのですが、1年少したった今も、翔子が自分の意思で実家に帰ってきたことは一度もありません。一人の部屋がどんなにいいのか分かりませんが、仕事で仕方なく来る以外は帰ってこないのです。そして、驚いたことに一人でご飯を作って一人で食べています。これが翔子の一人暮らしの定義だと思います。

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 一人暮らしは不安で寂しいだろうというのは、親の幻想でした。翔子はこの世に悪い人がいることが分からないし、私たちのように希望や予定があって時間を過ごしているわけではなく、100%今を生きているので、ちっとも寂しくないし、不安でもないのです。 私は翔子と離れるのは寂しいと思いましたが、翔子は「お母さまと私は心でつながっているから寂しくないね」と言っています。本当に心でつながっているから、一人であっても一人ぼっちではないのです。

 一人暮らしを始めて、翔子は頭がとても良くなりました。一人暮らしを始めて2か月目ぐらいから、おぼろげに大きなお金のことが分かってきたのです。あるとき、翔子が「お給料が欲しい」と言うので、二人で協定を結んで、書を1回うまく書けたら5000円与え、失敗したら減俸で1000円ずつ引くことにしました。私は翔子に生活費をどのように渡そうかと思って試行錯誤していたのですが、翔子はそのお給料でちゃんと暮らしています。

 翔子は毎朝、私からもらった1000円札を握って街に繰り出します。スーパーマーケットなどでは買い物をせず、米はその街のお米屋さんで、花もお花屋さんで買います。翔子は街と実に溶け合っているので、私たちが想像できないような素晴らしい一人暮らしをしています。心配しているのは、親の側だけです。それから、地域の中で生きていくことが大事だと思います。地域の皆さんに助けられながら、自立させていくことがいいと思います。

 どこの学校へ行っても、過保護なのです。登校するときも手をつないで来いといわれました。今とは時代が違いますから、そうして学校とけんかしながらいろいろな苦労をしてきました。今では、翔子は道をとてもよく覚えられるし、東京の遠い所まで電車を乗り換えて行けるようにもなりました。過保護なままでは、きっとこんなに地理に詳しくなかったと思います。

 お料理は何でもできます。翔子が料理を始めたら、台所には誰も入ってはいけないことにしてきました。入ってしまうとどうしても手伝ってしまうし、せっかく作っているのに手を出されると、傷ついてしまいます。わが子が作る料理ですから、おいしいです。私が喜ぶと、翔子は達成感を味わいます。すると、もっと喜ばせたいという思いが強くなり、レシピはどんどん増えていきます。

 その子の力を信じてやらせてあげて、待つことも必要です。そして、やり遂げたら褒めてあげると、またステージが上がっていきます。子どもは信じてあげればあげるほど、やろうとします。ですから、障害者のお母さんたちはわが子を障害者だなどと思わないでください。全て障害の人はいないのです。翔子は言語障害が強いですが、別の知性がちゃんと育ちます。その力をしっかり見てあげればいいので、駄目だと思ったら駄目です。翔子はとても優しいですから、私を助けようと思うこともあり、今は親子が逆転するくらいしっかりしています。ですから、子どもの力を信じてあげてください。

翔子の生い立ち

 2005年の国体の開会式で、翔子は5m四方の紙に「夢」という1文字を書きました。20kg以上もする筆を持つので、当時は誰もが反対しました。でも、私は翔子が切羽詰まって母親のためにやろうと思ったときの力を知っているので、反対を押し切って書かせました。

私たち書家が5m四方の紙を渡されたら、折ったり印を付けたりしますが、翔子は何もしなくても収めて書いてしまいます。知的障害を持って育ったことで、不思議な力が育まれたのです。本当に見事な「夢」を書きました。天皇・皇后両陛下がご覧になっていて、その後すぐに陛下から御製の歌が届き、それを書いてくれと言われたので、翔子は書いて差し上げました。東京の調布公園に石碑が建っており、わが子ながら「すごいね」と思いました。

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 30年前、私はダウン症の子を授かり、とても悲嘆に暮れていました。でも、時間が助けてくれて、告知されたときの苦しみや悲しみをだんだん忘れるようになり、私と翔子はとても幸せな境遇になりました。苦しい時期に翔子が私を助けてくれていたのです。とても敏感な子ですから、母親の苦しさを感じています。ですから、私は翔子に感謝していますし、とても信じられる存在です。

 親が信じれば、子どもは親を決して疑いません。ですから、子どもを100%信じてあげて、一人でできる喜びを味わせてあげることがいいと思います。過保護が一番いけません。障害者だからできないことはないのです。いろいろな思いの回路が違うので、ゆっくりですけれども、その辺を理解してあげると大きな力が出てくると思います。

 小学校は普通学級に通いました。翔子は何をやってもビリで、先生にとても申し訳ないと思いましたが、その先生は私に「翔子ちゃんがいるとクラスは穏やかになるし、みんな優しくなるから、翔子ちゃんがいてくれていいのよ」と言ってくださいました。それまで私はマイナスのことしか考えていませんでしたが、そのとき初めて翔子はこの世にいていいのだと思いました。

 私は、同じクラスの友達2人を加えた3人を生徒にして、書道教室を始めました。そうして友達ととても楽しくしていたのですが、4年生になったとき、先生から「もうこの学校では翔子ちゃんを預かれない。身障者学級がある遠くの学校に移ってくれ」と言われたのです。私は学校とけんかになってしまって、次の学校を決めないままボイコットしてしまいました。

書家になるために

 学校を休んだ私たちを待っていたのは、大変な地獄でした。翔子と二人でこもって書道をしているだけで、時間が茫洋とあるわけです。そういうとき、障害者の親はとても苦しいです。「私たちはこの世では生きていけないんだ」などと思い込んでしまっていました。

 そんなとき、私は翔子に般若心経を書かせることを思い立ちました。あのときは無謀だと思いました。般若心経は難しい字の羅列です。私は台所から菜箸を持ってきて、翔子を厳しく指導しました。あるときは本当に罵倒もしました。それでも翔子はとても優しいので、マイナスの言葉を決して言いません。翔子は書きながら、叱られる状況が悲しくなって泣き出し、涙がはらはらと紙に落ちるのです。涙を乾かすために休むときには、必ず「ありがとうございました」と言ってくれます。そんなふうにして、約3000字を書きました。

それで、翔子は集中力が持続するようになりました。今ではどんな字が出てきても、書き順は確かですし、きちんと書くことができます。このとき、書家の基本が身に付いたのです。翔子自身は、前と変わらず私を慰めるために泣きながら書いているだけだと思います。いまだにそのときの般若心経には涙の跡が化石のようにしてあるので、「涙の般若心経」といわれています。もしあのとき、普通学級のままでいたら、書家にはなれなかったと思います。あの頃は、小学校に行けなくて、どこかに逃げてしまおうと思っていました。でも、苦しいことがあったから書家になれたのです。闇の中に落ち込めば必ず光があり、闇の中に落ち込まなければ大きな光は見いだせないことが分かりました。

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 翔子はダウン症で生まれたことを一度も嘆いていません。ただ、親である私が世間体や将来の不安で苦しかっただけであり、翔子はダウン症のことなどいまだに分かっていないのです。生産性や効率性を求める社会からすればマイナスが大きいように思いますが、マイナスだけではないのです。とても大きなものを私に見せてくれます。ですから、私は翔子に支えられてきたことがその頃に分かり始めたのです。

 翔子が14歳のとき、翔子の父親が突然亡くなりました。遺言も何もなかったのですが、彼は生前、翔子の書を認めてくれていて、私によく「翔子は書がうまいから、20歳になったら個展を開いてあげよう」と言っていたことを思い出しました。

 1回限りだと思ったので、私は思い切って派手にしました。憧れの銀座書廊での個展です。それがメディアに取り上げられて、画廊に入り切れないほど多くの方に来ていただきました。そのときから翔子は書家になりました。私は翔子が書家になったことがうれしいですし、親がうれしいことは翔子もうれしいですから、とても幸せになりました。

 不思議だったのは、翔子の書の前で皆さんが泣くことです。テクニックでは私の方が上かもしれませんが、翔子の書にはなぜか涙を誘うほどの感動があるのです。その理由は何なのかをずっと考えていたのですが、その一つは、翔子はIQがとても低い代わりに、感性が大いに育ったことだと思います。知的障害があったことが、かえってよかったのだと思います。学校で学問をせずに済んだし、社会的なことや常識も分からない中で、翔子が生まれ持った魂に何もくっつかなかったのでしょう。翔子は知的障害を持っていることで、競争心が全く養われなかったのです。競争心がないということは、人をうらやんだりねたんだりする感情が全くありません。いつでもみんなのために喜んで生きていくのです。そのとても純真な魂が、きっと感動を呼ぶのだと思います。

 翔子はとても優しいです。この優しさは、私が教えられる範ちゅうのものではありません。絶対に周りが平和でなければ嫌なので、翔子が行くところはいつも明るくて喜びに満ちています。ダウン症の人は染色体が普通の人より1個多いのです。だから、この1個多い染色体の正体が、素晴らしい優しさなのだと思うようになりました。

 もう一つは、翔子は生き方の達人のように生きるのが上手なことです。翔子は将来に対して希望や予測がありません。翔子の未来は、明日のお昼ごはんまでです。私は「唯心偈」という文字をよく書きます。翔子は「唯心偈」の哲学に沿って生活しているような面があります。純度の高い魂と優しい心と幸せいっぱいの生き方の三つが相まって、翔子の書に皆さん感動してくださっていると思うのです。

翔子の生き方

 翔子はいつでも恋をしています。翔子は自分が好きになれば、相手も自分と同じだけ好きだと思うのです。自分が結婚したければ、相手も結婚したいと思い込むので、どんな恋もラブラブです。だから、いつもハッピーでいられます。

 翔子に何も教え込まないで済んだことは幸いでした。私は小さい頃、月がいつも私についてきていると思っていましたが、科学を学ぶことで、宇宙の法則で月が動いていることを理解していきます。けれども、翔子は31歳になってもまだ、玄関に入るときに月が空に浮かんでいると、「お月さま、ありがとうございます」と言います。私たちが持っている通念などに侵されない自由な世界に翔子は解き放たれていますので、この世の真実とつながったような気がします。この世に満ちている真実は平和と調和と愛です。翔子には、本当にみんなに喜んでもらいたいという愛しかないのです。

 翔子は小さい頃から、おいしいお菓子が出てくると、みんなにあげてしまいます。みんなが喜んでくれる方がうれしいからです。知能が低い証明のようで悲しかったのですが、私はそれを嘆きません。世俗に対する欲がないのです。みんなに喜んでもらいたいという思いから大きな力が生まれ、翔子には考えられないような大きな仕事が来て、全て大成功しています。

 翔子は、損得を考えるような世界から解き放たれて、もっと大きなものと結ばれています。この世界の真実は平和や調和であり、戦争や競争は人間社会が作ってしまった幻想だと思います。

世界一幸せな母親

 ですから、翔子たちは本当に幸せです。本当に幸せだと人を救います。私は翔子がダウン症でよかったと、はっきり言えます。

 「世界ダウン症デー」の昨年3月21日、翔子はニューヨークの国連本部でスピーチをしました。30年前、翔子がダウン症と告知された日から、私はあまりの苦しさに日記を付けていて、最初の日は「私は世界の中で一番悲しい母親だろう」と書いてあったのですが、そのときは翔子の目の前で「今日のお母さまは世界一幸せだよ」と言えました。30年前に世界一悲しかった母親がいつの間にか世界一幸せになれたのです。人生には何が待ち受けているか分かりません。皆さんには、生きてさえいれば絶望はないということを伝えたいと思います。

 ダウン症の人たちは障害者だといわれていますが、彼らの無心な思いが私たちを救ってくれる時代がいつか来るのではないかと思います。生物には38億年の歴史がありますが、人間に限らず生物が存続していくためには、染色体の病気を持ったものが必ず3%存在するそうです。ですから、3%を引き受けてくれた翔子たちに対して、免れた97%の私たちは敬意を表したいと思います。

金澤翔子氏 「席上揮毫」

※この作品は2017年4月に新設されるスポーツ科学部棟内のエントランスに飾られます。

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書家・日本福祉大学客員教授

金澤 泰子

書家・日本福祉大学客員准教授

金澤 翔子

※この講演録は、学校法人日本福祉大学学園広報室が講演内容をもとに、要約、加筆・訂正のうえ、掲載しています。 このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。

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