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重要文化財の保存と活用

歴史的資源をどう伝えるか

 南知多町内海の内田佐七家住宅が昨年7月に国の重要文化財に指定された。内田佐七家は、江戸時代から明治時代にかけて活動した廻船主であり、廻船は瀬戸内海、伊勢湾、江戸湾を中心に活動していた。内海には内海船とよばれる廻船集団があり、船主、船頭たちで組織する仲間は戎講を組織していた。内田佐七は戎講に加入し、幕末に急速に成長した廻船主であった。内田家では、幕末から維新にかけて、廻船主として風格のある屋敷を建築した。それが今回重要文化財に指定された建物である。

 内田佐七家の屋敷は、廻船主の特徴を持つ建物である。たとえば、屋敷の中央に「神屋」とよばれる神棚のある部屋がある。その部屋には、金比羅社(香川県)、青峯山正福寺(三重県鳥羽市)などの海上安全を祈願する御札が多数残されており、廻船主ならではの建物といえる。現代でもしばしば海難事故が起こるが、台風のメカニズムも明らかになっていない江戸時代では海上での危機意識は強い。内田家でも海難事故で水主たちを失っており、数年前に100歳を超えて亡くなった内田家の夫人は、義父から聞いた水主たちへの思いを語ってくれた。

 内田家の歴代当主が戎講年行事をつとめ、屋敷を戎講参会の場所として提供した。その場所が母屋の東側にある「奥座敷」である。内田家の廻船経営が軌道に乗り、屋敷を新築する際に、戎講のための空間を作った。内田家の当主は「地域で支えてもらいながら廻船活動を続けてきた」という。廻船業を廃業した後も「奥座敷」は大切な場所として守られてきた。子どもたちは入ってはいけない場所とされ、きれいに保存されてきた。子どもたちにとって「奥座敷」は自分の家であっても自分の家でないような感じがしたのだろう。

 このように廻船業を営む家の特徴を持つ屋敷が、内田佐七家のその後の子孫たちによって大切に保存されてきたことが、重要文化財の指定の理由である。それに加えて、建築調査や、古文書・道具などの学術調査が行われ、内田佐七家の建物や廻船業としての歴史が解明されてきた。さらに、南知多町や南知多町観光ボランティアガイドによって、建物が公開され、日々の清掃やおもてなしがされている。雛祭り、端午の節供などの年中行事、企画展、弦楽器のコンサートなどのイベントも行われている。

 文化財は保存を第一に、学術調査によってそのものの持つ性格・特徴が明らかにされたうえで、展示などによって、その内容が一般に公開されるべきである。建物に入り、古民家のたたずまいを感じるだけではその家の特徴は伝わらない。どんな特徴を持つ家なのかをしっかりと伝えることが必要である。また、文化財の活用が話題になる昨今、さまざまな立場の人を交えて、活用の中身が議論できるようにならなければならない。

曲田 浩和 経済学部教授

※この原稿は、中部経済新聞オピニオン「オープンカレッジ」(2018年7月26日)欄に掲載されたものです。学校法人日本福祉大学学園広報室が一部加筆・訂正のうえ、掲載しています。このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。

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