※所属や肩書は講演当時のものです。
私は障害者福祉が専門で、普段は福祉を支える側の専門家を養成しています。一方で、現在26の福祉施設を運営しています。ですから、なるべく現場のことを学生たちに伝えたいと思いながら授業をしています。しかし、教育の世界と福祉の現場にはまだまだ一致していない面があります。
その中で、「『我が事・丸ごと』地域共生社会」は、国が掲げている大きな福祉の方針であり、日本福祉大学も原田正樹先生が委員となって具現化しようとされています。ただ、地域共生は当たり前のことであり、その枕詞として「我が事・丸ごと」があります。今日は、この「我が事・丸ごと」とは何を指しているのかを説明していきます。
国は2035年に向けて、保健医療システムを変革しようとしています。日本は少子高齢化が進み、労働者人口が減っており、介護を支える専門家たちがいなくなります。自分も福祉施設を運営していますが、本当に人手不足です。介護やケアの需要は増えていますが、それを支える人がいません。
そこで、国は大きく二つのことを考えています。一つは、ロボットが介護する時代が来ているということです。例えば自動おむつ交換機というものができました。おむつに付いた細い管が尿を感知し、自動的に吸い上げるものです。今では人工知能も使われ始め、会話をするぬいぐるみを導入した施設も出てきています。
しかし、福祉には人の手が必要です。そこでもう一つの秘策となるのが共助や自助です。今までの福祉は公助といって、国が何でも支援してきましたが、自分のことは自分でやろう、お互いが助け合おうという方向性の中で提示されたのが「我が事・丸ごと」地域共生社会なのです。
「我が事・丸ごと」の特徴は、高齢者や障害者、児童という壁をなるべく取り払うことです。実は日本の福祉は、障害者、高齢者、児童で制度が全く異なり、法律が横のつながりを切っている側面があります。しかし、なるべく同じ制度に組み込むために、障害者サービスの仕組みと介護保険の仕組みが近づきつつあります。一方、自助の世界では、少しでもサービスを減らし、国の支出を抑えるため、まずは介護を受けない身体になろうという方向にも動いています。
では、国がどのように「我が事・丸ごと」を進めているかというと、「我が事」の点では、住民主体による地域課題の解決力を強化し、地域づくりの総合化・包括化、すなわち地域の中で問題が起こる前に互いが協力する態勢を構築しています。同時に「丸ごと」の点では、障害者、高齢者、児童に限らずみんな一緒になって考えていきます。
では、果たして地域で具体的に共通認識を取れているのかという問題があります。地域といっても一人ひとりの感じ方は違います。私が思うのは、地域の成熟度や特性、社会資源を考えていかなければならないということです。さらに、国の施策としては、大きな入所施設はなるべく作らず、地域の中で生きる方向を模索しています。今後はグループホームやサービス付き高齢者住宅などで、お互いがしっかりと助け合って生きていくことがベースの考え方になります。
ただ、そのときに果たして本当に共生社会を具現化できるかという問題があります。地域社会の成熟度には多くの価値観があり、これが意外とぶつかり合ったりします。共に助け合うといいながら、保育園を作ることになったときに反対運動が起きたりします。「子どもの声が普通に地域にあっていいじゃないか」と考える人もいれば、「子どもの声は騒音でしょう」という人もいます。さまざまな考え方の中で、本当に価値観が統一できるのだろうかという問題があるのです。
私は、障害者の家族で育ちました。地域や障害者の家族会などに支えられて生きてきました。私のような障害者家族にとって、誰かに支えてもらわなければ生きていかれない家族にとって、物理的に近くにいる第三者が非常に重要な他者になるのです。
そのような背景で、家族会を中心に、将来の生活設計をみんなで話し合い、社会福祉法人を取得し、第1号の施設を設立し、施設の運営を始めました。
現在までに、3つ目の社会福祉法人を設立し、現在、入所施設、生活介護、就労継続B型、重症心身障害者通所事業、児童発達支援事業など27事業を運営しています。
しかし、国が何でもやってくれる時代は終わりました。1999年、社会福祉基礎構造改革が行われ、いわゆる措置の時代が終わり、受益者負担になったのです。これが介護保険といわれるものです。受益者負担はどんどん膨らんでいますが、それで互いに助け合えているかというと、なかなか助け合えていません。意外と社会は優しくないのです。私は障害者の中でずっと生活してきましたが、社会の中に出ると意外に冷たい社会の現実を見てしまうのです。例えば、私は施設をこれまでたくさん建ててきましたが、本当に多くの反対運動を経験してきました。
最近も障害者のグループホームを建てたときに住民説明会を開いたのですが、「障害者が地域で暮らしたい」と説明したら賛同するのに、設置場所を説明した途端、「私の家の横だけはやめて」と言うのです。つまり、総論賛成、各論反対なのです。反対されたときどうするかというと、やはり頭を下げます。まず分かってもらうことです。地域の方が、障害者が横で暮らすのは怖いと思う気持ちは分かります。横に大声を出す人が引っ越してきたら怖いと思うのは当たり前です。だから、きっとまだ分かってもらえていないのだろうと思い、頭を下げ続けて、自分たちのことを分かってもらうのです。
共生社会の原点は、相互理解だと思います。高齢者のことは、自分も高齢になっていくのでまだ分かりやすいのですが、障害者のことは接点がないと意外と分かりません。だったら、お互いが理解し合うことが原点になければならないと思います。でも、難しいのは、同じ価値観同士ではないということです。
福祉の世界には、まだまだ賛否両論になっていることがあるのです。2013年に、新型出生前診断に関して大激論がありました。賛否両論になったのは、日本は人工妊娠中絶を認められている国だからです。導入すると、命の選択ができることになるのではないかという議論が起こり、導入の賛否が真っ二つに分かれたのです。2016年に、出生前診断で障害児(トリソミー)がわかったときに中絶した割合を国が発表したのですが、94%が産まないと答えたのです。さらに恐いと思うのは、この検査に関する研究が終わり、今後は一般診療に移るそうです。つまり、どこの病院でも簡易的な血液検査で分かるのです。
そうなったときに、われわれは地域の中にいろいろな考え方を持った人たちがいることを分かっていなければなりません。それぞれに価値観があって、それぞれの考え方があるのが地域なのです。その中で地域共生社会をどう具現化していこうかといつも苦労しています。
ただ、いつも思うのは、地域に入るときにはまず分かってもらわなければならないということです。私が運営する施設が東京都大田区の下町にあるのですが、地域の中に入るときに、どれだけ苦労したか分かりません。そうしたときは、町内会長と一緒に飲むことで分かってもらいました。片や別の市町村にも施設があるのですが、新興住宅街で、町内会長がどこにいるかさえも分かりません。このように地域の特性は全く異なります。
大田区にある施設は45人の通所事業所にもかかわらず、秋祭りには2600人もの人が来場します。その施設には桜の木があり、ようやく地域に開かれて、地域の方が花見に来るようになったのですが、桜も恐ろしいものなのです。1週間たつと道路が花びらだらけになり、あれだけ桜を楽しんでいた地域の人から「誰が汚したのか」と怒られるのです。われわれは朝早く行って繰り返し掃除をしました。
でも、それは当たり前だと思うのです。なぜなら、地域で暮らす権利がある一方で、地域で暮らす義務を果たすことを忘れてはならないからです。義務と権利の両方がなければ、共生社会はできないと思います。障害者は意外と権利ばかり主張してしまいます。そうではなく、義務もしっかりと果たしていくことが大切です。
その中で、合理的配慮について考えてみたいと思います。合理的配慮とは、お互いが少しずつ配慮するということです。例えば車椅子の人がいたら、スロープを作ることを合理的配慮といいます。
この前、合理的配慮の学習会で当事者団体が集まったときに、車椅子の方々が「もっとスロープを作ってくれ」と言いました。すると、視覚障害者の団体が「スロープを作らないでくれ」と言いました。視覚障害者は白い杖を持ちながら空間認知をしているので、スロープを作られると駄目なのです。今度は、視覚障害者の団体が「もっと点字ブロックを作ってくれ」と言いました。すると、肢体不自由の人たちが「何だ、あのでこぼこの道は」と言いました。このように、お互いが主張し合ってけんか状態になるのです。ですから、合理的配慮は、一つ間違えると相手を傷付けることもあります。
私も、日本での配慮はおかしいと思うときがあります。駅のホームに電車が入ってくるとき、「黄色い線まで下がってください」と放送が入りますが、ホームの黄色い線には点字ブロックがあります。つまり、目の見えない人たちを一番危ない場所に立たせて、安全な場所に下がるように言っているのと同じです。いろいろ配慮しているように見えて、意外と配慮が足りなかったりするのです。目の不自由な人の転落事故が多いのに、なぜ一番危ない所に点字ブロックがあるのか不思議に思います。結局、ハードを整備することがメインになってしまっているのです。
合理的配慮で大切なのは、ほどほどの合理性だと思うのです。それぞれ譲れないことがあるはずですから、それぞれの立場で譲れないことはちゃんと言うけれども、譲れるところは譲らないと結局けんかになります。ここは絶対譲れない、ここは譲れるというところを探すことが、地域共生社会では必要だと思います。
障害者差別解消法の目的も地域共生社会の実現ですが、相互理解を推進していかなければなりません。例えば電車の車内に優先席がありますが、もし人がいなければ別に座ってもいいと思うのです。あるとき優先席に座っていて、目の前に目の不自由な白杖を持った人、妊婦、どう見ても体調が悪そうなサラリーマンの3人がいたら、誰に席を譲りますか。私は誰にも代わらないかもしれません。そのときの合理的配慮のスタートが何かというのは、きっと分からないのです。だったら聞けばいいといつも思うのです。
地域の中での不自由さは、一人ひとり違うのです。だったら、「何かお手伝いすることはありますか」という一言があれば、要らなければ「要らない」と言ってくれます。日本は遠慮する文化があるから、勇気を持って「何かお手伝いすることはありますか」と言うことです。私もいろいろな現場にいて分からないものは、聞かないと分かりません。お互いが助け合うには、聞かないと分からないと思っています。地域では、周りが勝手に想像してしまうのです。そこをきちんと整理した方がいいといつも思います。
地域共生社会を実現するためには、権利と義務をもう一度考えなければなりません。それから、お互いの理解ではなく、お互いの困難性を理解する必要があります。目の不自由な人の理解ではなく、目の不自由な人が何に困っているかを理解すれば、みんなの共通項になります。また、「ほどほど」の合理性を保っていかないと共生社会は難しいし、個々の価値観は絶対に否定してはいけません。
まさにこれからの地域共生社会で考えなければならないと思うのは「自律」です。これは、自分のことは自分でやっていこうということです。それによってお互いが助け合う世界がきっと成立すると思います。
私たちの施設で、日本で初めてのバーができました。「ナイトB」といって、障害者就労のB型の施設で、障害者たちが働いています。私たちは飲み物だけを提供し、つまみはALL JAPANで全国の福祉施設から送ってもらい、提供しています。ただし、人気のないメニューは消えます。あくまでも競争なのです。
このように、お互いが Win-Win の関係をつくっていかなければなりません。地域で一つでもマイナスになってしまえば、またそこでひずみが生まれます。お互いがほどほどの Win-Win になる関係をつくることが、地域共生社会の中で大切なのです。
※この講演録は、学校法人日本福祉大学学園広報室が講演内容をもとに、要約、加筆・訂正のうえ、掲載しています。 このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。