小國 和子 国際福祉開発学部 教授/大学院国際社会開発研究科長
※所属や肩書は発行当時のものです。
「異文化ってたとえば何ですか」と尋ねると、学生はたいてい、「自分以外の誰か」の話をしはじめます。
――ここから学生との対話がはじまります。
私が専門とする文化人類学は、言葉のとおり、「文化」を切り口に人間を理解しようとする学問です。「文化」といっても芸術・芸能といった狭いイメージではなく、生活文化と言われるように、誰にとっても身近な、日常的な暮らしの「当たり前」「普通」の仕組みを理解しよう、明らかにしようというのが基本的な関心です。なかでも、自分にとって異文化であるような地域で暮らす「他者」を理解する学問として発展してきました。
自分にとって馴染みのない地域や人々を理解する方法として重視されてきたのがフィールドワークです。これは、対象地域を訪れて、できれば長い期間住み込み、自らその場所―フィールド―での日常生活を体験しながら観察する「参与観察」や、人々の語りに耳を傾ける深い聞取りを中心とする調査研究のプロセスです。写真1は、私が1990年代半ばから通っているインドネシアの農村で農家さんに話を聞いているシーンですが、学部生の頃は指導教員から「すぐに質問するな、まずはその場の出来事に参加し、五感で観察せよ」と言われました。調査する側の常識に基づいた問いかけは、現地社会の常識や実感から外れているかもしれないからです。
このようにフィールドワークでは、異文化における「他者」の世界観を、五感を通じて体験し、観察・記録するサイクルの中で自分の「当たり前」を相対化する視点を養い、そのことで「他者」を理解しようとしてきました。つまり文化人類学は、他者理解の学であると同時に、自己理解の学なのです。異文化を「鏡」になぞらえてみると、「当たり前」が異なる場で様々な「差異」に直面することは、鏡に自らの姿を映し出すように、自文化の特性を意識する機会になるというわけです。
そう考えると、異文化理解は「自文化」理解と表裏一体です。学生から「異文化理解は他者の立場に立って考えること」という意見がよくあります。でもそれは、自分自身の常識を見直す行為抜きには語れないことです。問題の主体は誰かという視点をずらし、「自らが誰かにとって異文化として存在することに気づく」ことが出発点となります。
私が研究してきたのは文化人類学の中でも開発人類学という領域です。インドネシアやカンボジアなどの農村住民にとって「暮らしが良くなる」とはどういうことか、必要な支援はどのようなことかを、現地での生活や協働に参加しながら研究してきました(小國 2006, 2008,2011, 2018ほか。詳細は教員情報ページにて)。「参与観察」のスタンスは自ずと実務への従事につながり、日本福祉大学に勤め始めるまでの約10年間は、政府開発援助(ODA)事業で、農村実態調査や女性の副業創出、農民組織の活性化などの仕事をしていました。
そんな私が日本福祉大学で教鞭をとる初めての機会をいただいたのは今から16年前の2006年、カンボジアでの約3年間の業務が終わり、帰国直後のことでした。それまで、自分が研究する農村開発と福祉研究とのつながりを考えたことはなかったのですが、「ひらがなのふくし」が目指す世界は、文化人類学でこだわってきた、地域固有の価値や経験を大切に「当事者主体で考える」目線ととても親和的です。ひとつひとつの土地の過去からの経験の積み重ねとして今の暮らしがあり、その先に続く未来として、そこで生活する人たちの「幸せ」が夢想されるならば、それはまさに多様な地域と人びとの「ふだんのくらしのしあわせ」から読み解くべきものではないかと感じています。日本福祉大学との出会いによって導かれた文化人類学×「ふくし」の世界観は、今では私にとって教育と研究の両方における基本姿勢となっています。
教育と研究の両方にかかわる最近の取り組みを2つご紹介します。近年、日本で「生理の貧困」が話題に上ることが多くなりましたね。私は、月経衛生対処(MenstrualHygiene Management: 以下MHM)を各国各地のローカルな文脈から理解し、それを現地の状況改善に結びつけていこうという共同研究に参加しています。MHMは、SDGsを背景に着目されるようになった性別間の教育格差の是正や、清潔な水やトイレの整備といった課題解決の観点から注目されています。具体的には、たとえば初経を迎えた女児が、月経中でも学校教育や社会参加の機会にアクセスできることや、月経に対するネガティブな考え方で辛い目にあわないように必要な取り組みを実現していこうというものです。
写真2は、インドネシアの田舎にある公立中学校での調査風景です。中学3年生の女子約20名に話を聞いてみたところ、農村でも日本と同じように使い捨て生理ナプキンが普及し、生理中でも学校に通えるとの話でした。
ですが、現地では「経血は浄(きよ)くない」という考え方があるため、使い終わったナプキンを「きれいに洗わないと捨てられない」こと、そのために学校を含め外出中には交換しにくく、装着上の工夫が行われていることがわかりました。便利な商品の普及によって解決できる問題もあれば、見えなくなってしまう課題もあるようです(小國 2019.11)。
日本でも「生理の貧困」が取り沙汰され、MHMへの関心は高くなっています。そこで、性別を問わず月経について調べたり語ったりする「#生理を語ろうプロジェクト」と題するゼミ活動を行ったところ、男子学生からも「大学生だからこそ真面目に学べることもあるのでは」という声が上がりました。2021年後半には学生の発案で東海キャンパスで使い捨て生理ナプキン設置実験を行うなど、取り組みを続けています。
2つ目は、外国人技能実習生の受入現場をフィールドワークのセンスを持って捉えてみよう、というものです。「インドネシア」「農村」への関心の延長線上で、インドネシアから来日する技能実習生など、在住外国人を巡る課題にも関心を持ってきました。私の問題意識は、日本での充実した暮らしを支えるためには、来ている人たちがどんな地域で生まれ育ち、どういう経験や思いをしてきたのか、そして日本での経験を経てどのような人生を歩んでいきたいと夢見ているのかを知る必要があるということです(小國 2019.03)。
メディアで取り沙汰される、過酷な労働や生活を強制するなど違法行為が行われている劣悪な現場の緊急の問題解決には直結しませんが、良好な関係でうまくやりたいのに相互不信を招いてしまうといった手探りの現場では、さきほど「異文化としてのわたし」という目線の持ち方についてお話したように、やってくる人と受け入れる側の双方が、相手にとって自分が「異文化」だという身体感覚で相手への想像力を働かせることが求められていると感じます。
2021年に出版された『職場・学校で活かす現場グラフィー ダイバーシティ時代の可能性をひらくために』では、こうした、ちょっとした目線のずらし方一つで問題が違って見えてくること、それは同時に、見えていなかった可能性に気づく手がかりとなることを、様々なストーリーから紹介しています。学者の研究のための方法論としてではなく、だれもが自らの実践としてできることとしての「現場グラフィー」です。
最後に、冒頭の質問に立ち戻ると、最近は、「異文化ですか?それはわたしです」という答えも返ってくるようになりました。国際福祉開発学部はじめとする留学生や多文化ルーツの学生の発言です。「あなたにとって異文化は日本では?」と、隣にいる学生が口を開きかけ、そこで、一瞬前まで自分自身を含む日本を異文化として想像できていなかったことに気づきます。
異文化理解をじぶんごととして考える上で非常に恵まれた教室環境にあることを日々実感しながら授業を行っています。ダイバーシティがキーワードとなる時代に、「他者」を支える、支え合う現場で活躍する人材育成に取り組む日本福祉大学で、これからも「文化人類学×ふくし」の実践的な可能性を模索していきたいと考えています。
※2021年8月15日発行 日本福祉大学同窓会会報128号より転載