ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、スーダンやシリアの内戦などなど。世界では憎悪が渦巻き、殺戮(さつりく)が続いている。憎悪とは、いかなるウイルスの感染力よりも強く、その上、特効薬を開発することはできそうにもない。混沌のなかで、「多文化共生」とは、民族、宗教、言語、習慣などの違いを理解し乗り越え、ともに生きていくための一つの指針であり、期待も寄せられている。しかし果たして負の連鎖を止め、あるいはその芽をあらかじめ摘むことができるのか実に疑わしい。
そもそも「多文化共生」とは、実にリアリティーに欠けた言葉である。学生にその内容を教えることは至難の業でもある。もちろん、多様な文化を教え、言語能力を向上させるなど具体的な文化を伝えることはできる。しかし、総論としての共生について語ろうとすれば、戸惑いが生まれる。憎悪の渦に巻き込まれた犠牲者たちの悲惨な実態から翻って平和の意義、あるいは、都会の片隅で言語をボランティアで教える人びとの姿を伝えれば、リアリティーを埋めることはできそうでもある。しかし、惨劇や美談は、いずれも物語に過ぎない。
リアクションペーパーに「共生は大事だと思います」と学生たちはすまし顔でつづるが、帰宅途中、スマホから流れる陰謀論やヘイトに満ちた物語に触れれば、自分の言葉が忘却の彼方に消えていくまでに多くの時間を必要としないだろう。たとえ講義の内容が事実であったとしても響くことはない。残念ながら、美談はなかなか真似することはできないが、憎悪に共感することは容易(たやす)いということであろう。
日本で暮らす外国人は、2022年末、300万人の大台を超えた。日常生活のなかで、彼らを見かけること、知らない言葉を耳にすることは珍しいことではない。職場の同僚、同級生、隣人などと密接とまでは言わないにしても、外国人との距離は縮まりつつあることを実感している日本人も少なくないであろう。
そうした関係性が生まれるなかで共生を実現していくために、共生推進派、アンチ共生派のいずれの立場であろうが、彼らが生み出す物語は不要である。「多文化共生」の意味がリアリティーに欠けるゆえに、物語が溢れる結果を導いてしまっているのだが、目の前に存在する外国人を誰かが作った物語に落とし込む必要はない。ジュナサン・ゴットシャルが『ストーリーが世界を滅ぼす』(東洋経済新報社2022年)で指摘しているように「物語の語り手を絶対に信用するな」ということである。学生に伝えられることはこの一点に尽きるといっても過言ではない。
無論、私たちは物語というウイルスから決して逃れることはできない。しかし、目前に現れた外国人とリアルな物語、すなわち友情や愛情を育むことはできる。そして、その先に、決して社会全体を覆うようなものではなく、しかも大きな物語に絡み取られてしまう危険と絶えず背中合わせであるが、小さな共生を実現することは可能である。
※この原稿は、中部経済新聞オピニオン「オープンカレッジ」(2024年1月19日)欄に掲載されたものです。学校法人日本福祉大学学園広報室が一部加筆・訂正のうえ、掲載しています。このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。